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2024.8.19

Play KIMONOが生まれた背景と、キモノのポテンシャル

「着物はこうでなければならない!」という世間からの圧力

「着物はこう着るもの」とか、「これ以外は着物じゃない」という意見に接したことのある人は多いかと思います。

確かに、弊社が運営する京ごふく二十八は、そうした着物の真骨頂を得意としますから、その美しさや感性には心揺さぶられながら商売をしています。

 ただし、それが行き過ぎたことにより、現在の着物離れに行き着いた側面も見逃せません。

 

例えば着付け。

昭和初期の映像などを見ていると、東京の繁華街であっても、現代の視点で言えば、着崩したような、衿元が緩く、帯も傾いているような着姿を多数見かけます。

これは職人さんから聞いた耳学問ですが、昭和39年、東京オリンピックのころ、着付け関連の大家による、「世界中からお客様がいらっしゃるのに、日本人の着物がはだけていたりするのは、いかにもみっともない。着物はもっと美しく着なければいけません!」という主張によって、全国に着付け教室が増え、正しい着付けというものが追い求められるようになったそうです。

当初は正しい理念によって成されたことも、その理念は形骸化し、「何をおいても美しくきっちり着ることが善である」という観念だけに縛られるようになってしまい、今に至ります。

 

これは着付けだけでもありません。諸悪の根源たる我々、呉服業者も同じくです。

高度経済成長からバブルに向かう狂乱的気分の中、単価を吊り上げるため高級品の販売を推し進めました。

はたまた、より多くの商品を買ってもらうため、明治から昭和にかけてできてきたしきたりを軸に、複雑なルールを消費者に課し、そのルールを守るためには、これだけの品物を買う必要がありますと販売を促進しました。

もちろんその主張には、美しく、素晴らしい着物文化を支えてきた側面はありますが、日本が西洋化し、一層近代化する都市生活の中で、日本人がそれを守り通すことは困難でした。

また、封建時代、戦争を経て、新しい価値観の醸成がされる最中にも関わらず、呉服の世界は昔通りを押し通し、一般的衣服を作るアパレルは西洋至上主義でした(どちらも褒めてなくてすみません)。

その結果、日本人の衣服は、無国籍なものになってしまったと私は感じています。呉服業者が、アパレルとして取り組んでいてほしかったというのが強く感じるところです。

 

 日本がもったいない

「日本の衣類の無国籍化」というのは、世間からすれば常識に外れた観念だとは思うのですが、私は今の日本を眺めて、悔しくて仕方がないのです。

西洋化してしまった“世界のどこかの国”の歴史が短いものであれば、また、独自性のない、洗練もない、野暮で無粋な文化であるなら、他国の文化で上塗りしてしまっても良いかも知れません(それでも勿体無いと思いますが)。

ところが、日本の有する様々は、いかにもその反対にあるものです。

海に閉ざされた島国で、外国にそれなりの影響は受けつつも、ほぼ純粋培養の衣服発展が続いた国です(江戸モードの誕生: 文様の流行とスター絵師 著者: 丸山伸彦 P31を参照)。好奇心旺盛かつ器用で、職人気質の日本人が作り上げてきたものは、その洗練も世界に比肩するものが数えきれないほどあります。

  

Play KIMONOの持つ可能性

和装を広めるためには、着物愛好家から「なんだそれ?」と突っ込まれるような和装を創造していかねばなりません。

実は、欧米ではKIMONOと称するものがかなり売られています(2014年の記事:https://newsphere.jp/entertainment/20140819-8/)。

 「ビーチで気軽に着られるKIMONOローブです」などと宣伝され、着物に興味がない日本人が見ても、「それは着物じゃないんですよ」と言いたくなるような品物ばかりです。

ところが、私は海外で売られているこのKIMONOこそ、1600年代に日本から輸出されたヤポンセ・ロックやカンバヤを祖先とする、着物インスパイアドな衣服の進化系だと考えます

日本人が知らない、世界におけるKIMONOとも言えるでしょう。

左:ヤポンセ・ロック、右:カンバヤ(日本経済新聞:着物は自由 東京国立博物館工芸室長 小山弓弦葉氏)

今から考えると信じられませんが、1800年代、着物はその快適性と機能性によって、欧米で受け入れられました。 コルセットで締め付けられていた女性を最初に解放したのは、ココ・シャネルさんではなく、着物だったのです(参照:リンク先34ページ https://www.jstage.jst.go.jp/article/kansei/16/1/16_33/_pdf)。

着物は、欧米で大流行して以降、前合わせ型のドレスや、直線だちの洋服が生まれるきっかけともなりました。

そうした歴史的背景もあって、KIMONOライクなアパレルは欧米にすっかり根付いていますが、私の問題意識としては、そこに日本人は誰も関わっていないであろうことにあります。

本家本元の日本人が、本歌たる着物をベースにしてKIMONOブランドを作ることには大いに意義があるはずです。

 そして、KIMONOの認知度は世界屈指のものです。この知名度とある程度の需要に対して、良質な供給が無いことに、機会が潜んでいると思います。

 

着物は本当に完成形なのか

日本の装束というものを2000年の中で見るだけでも、海外からの影響を受けつつ、独自に進化したことがわかります。

https://costume.iz2.or.jp/period/asuka.html

様々な事例はありますが、明治天皇が洋装を採用される時には、宮中で大変な反対があったそうです。それを乗り越えるため「平安時代から、袖の大きな衣服を着てきたが、これは軟弱なものである。武をもって治めた神武天皇は筒袖、細袴であり、この時代に戻るべき時が来た」というご主張をされて、洋装になられました(参照P53 : http://meijiseitoku.org/pdf/f55-3.pdf)。

相当なウルトラCだと思います。

神武天皇のご衣裳がどこから来たのか定かではありませんが、庶民は古代から長く筒袖を用いていました。

その他にも色々と新しい和の服を創り出すエッセンスはたくさんあります。

 ・Vネックは「方領(ほうりょう)、たりくび、かくえり」、クルーネックは「盤領(ばんりょう)、あげくび、まるえり」と呼ばれた。

・脇のスリットがある衣服は腋(けってき)と呼ばれ、刀を挿して騎馬する武官が着用。スリット無しは縫腋 (ほうえき)と呼ばれ、文官のものだった。

 

歴史を踏まえれば、外国を発端としたしきたりは多くあります。

・右前

飛鳥から奈良時代の宮廷装束は大陸からの輸入品と言えるでしょうし、現在の着物が右前(みぎまえ)という「左前身頃を上に重ねて着る」というのも、右衽令(うじんれい)という701年の大宝令に端を発しており、唐様にならったものです。

・黒紋付き

男性の最上位着物である黒紋付きは、明治時代に入ってから、西洋のモーニングに対応して作られました。縞の袴を合わせるのも、モーニングが縞のズボンを着用するからです。

こうしたことを踏まえれば、着物以外は認められないという人にとっても、 幅広く考えざるを得ないはずです。

和の服進化のきっかけになる二つのルール

先述の江戸モードの誕生: 文様の流行とスター絵師 著者: 丸山伸彦 に書かれていることですが、衣服の進化には下の2点が不可逆的な進化になるそうです。

・下着が表着になる

現在の着物につながる小袖(こそで)は、平安時代に下着だった。

・常に下位の衣服が上位に昇格する

水干(すいかん)というのは今見ると、非常に高貴な人が着た衣服なのかと思えますが、元々は庶民の衣服でした。

そのように考えると、現代の着物で言えば、長襦袢や肌着、裾よけ、褌(ふんどし)や湯文字が表着として進化しても良いのでしょうし、こちらの写真にあるような股引き(ももひき)や昔の労働着が進化できるはずです。

 

 新しい和の服を、KIMONOだと言い張れるだけの根拠と意志

例えば、KIMONOフーディやJUBAN-Tシャツは 一見、和装と思われない衣服です。そんな境界線にあり、和服と思ってもらえないかも知れない衣服を、和装であると言えるだけの根拠や意志が、ブランド運営には大切だと思っています。これは洋服ブランドにはできないことです。

もし鎖国が続いていて、西洋服を知らない日本人が、動きやすい衣服を作ったとすれば、それは全て和装になったはずです。西洋服が入ってきて、影響を受け、着物と融合させた衣類ができていたとしたら、それも和の服として通用したことでしょう。

それを今、もう一度、京都で高級呉服を作り商う私たちが創り出していきます。

 

アーリーアダプターの皆さんへ

Play KIMONOを始めた思いの丈を書くと、長くなってしまい、お読みくださる方にとっても大変なことだろうと思っています。

着物愛好家の方々にどれだけ許容してもらえるかは分かりませんが、Play KIMONOを見て「へー、おもしろいことをやってるな」と思ってくださるイノベーター、アーリーアダプターの方々に楽しんでいただきたいと思っています。